世田谷区立桜丘中学校 昭和38年度3年H組落ちこぼれ生徒の二つの失敗, 憧れの高校受験とプロポーズ

〜目次〜

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序章
《前 文》
第一章
《受験ムードと俺の英語体験》
第二章
《中学1年当時の英語の教科書》
第三章
《高校受験案内書》
第四章
《入試時の状況》
第五章
《聖パウロ高校受験理由》
第六章
《妹の事》
第七章
《各生徒について》
第八章
《各先生について》
第九章
《中学3年間の成績表等》
第十章
《生徒手帳》
第十一章
《修学旅行》
第十二章
《卒業写真と名簿》
第十三章
《その後の感想と俺の人生》
第十四章
《同級生の皆様へ》
第十五章
《雑記》
第十六章
《思い出の昭和史》
番外編
《実録会話と想定会話》
あとがき
《総決算》

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第十五章《雑記》

 俺の中学時代(1961年4月〜1964年3月)の世の中の出来事に付いて書き殴ってみました。尚一部第十六章と重複する部分もあります。
① 将来の理想の職業 外交官
② 一番行きたい国・島 アイスランド、南サハリン(南樺太)
③ 各年の主な出来事
  1961年 ソ連初の有人宇宙船
  1962年 キューバ危機、ヨットで太平洋横断   
  1963年11月の米ケネディ大統領暗殺
④ プロ野球日本シリーズ優勝チーム
  1961年 巨人(対南海4勝1敗)
  1962年 東映(対阪神4勝2敗1引き分け)
  1963年 巨人(対西鉄4勝3敗)
  高校野球優勝校(準優勝校)
  1961年 春・法政二(高松商) 夏・浪商(桐蔭)
  1962年 春・作新学院(日大三)夏・作新学院(久留米商)
  1963年 春・下関商(北海)  夏・明星(下関商)
⑤ この期間大相撲は18場所あり大鵬が12回も優勝し正に大鵬の全盛時代でした。他に佐田の山=2回、栃の海=2回、柏戸=1回、北葉山=1回。その中で面白い珍記録が発生しました。それは当時(1961年5月場所)の幕内優勝は前頭(平幕)の佐田の山で12勝3敗でした。一方、十両優勝は清の盛で12勝3敗でした。ユニークなのは十両優勝者の清の盛が本割で幕内優勝者の佐田の山を破っている点です。
⑥ テレビ番組について
  俺がいつも見ていた番組はデン助劇場(伊東温泉ハトヤ提供)を土曜日の昼下がりに昼飯を食いながら楽しんでいました。他に兼高かおる世界の旅を日曜日の午前中に朝風呂と朝飯後に見ていました。パティ・デューク・ショーは週一回夕方7時から晩飯を食いながら、ベン・ケーシーはたまに観る程度でした。ではその他の主なヒットしたテレビ番組は次の通りです。
  ジェスチャー、私の秘密、お笑い三人組、危険信号、バス通り裏、事件記者、スター千一夜、ザ・ヒットパレード、ママちょっと来て、それは私です、ブーフーウー、夢であいましょう、若い季節スチャラカ社員、シャボン玉ホリデー、ズバリ!当てましょう七人の刑事、特別機動捜査隊、咲子さんちょっと、隠密剣士、鉄腕アトム
⑦ 音楽について
 俺が一番好きだった音楽はテレビ番組で《兼高かおる世界の旅》のBGMで流れていた《80日間世界一周》という曲でした。海外への夢を託すに相応しい曲でした。それ程気に入った音楽でしたのでその後何枚か買ったのですがやはりこの当時聴いていた楽団の演奏が最高でした。《80日間世界一週》の小説も読みましたが、現在の様に飛行機が無い時代の時間との勝負のハラハラドキドキのスリルと冒険に満ちた物語でした。
 俺の中学時代(1961年度〜1963年度)にヒットした主な曲は次の通りです。
 1961年度
 銀座の恋の物語、ソーラン渡り鳥、おひまなら来てね、武田節、襟裳岬、 北上夜曲、24000回のキッス、君恋し(第3回レコード大賞)、 山のロザリア、コーヒー・ルンバ、スーダラ節、北帰行、川は流れる、雨の九段坂、アカシアの雨が止む時、惜別の歌、上を向いて歩こう、 ラストダンスは私に、王将、恋しているんだもん、ルイジアナ・ママ、 花咲く街角、ボーイ・ハント、電話でキッス、イエロー・バード、ラ・ノビア、ビキニ・スタイルのお嬢さん、ポケット・トランジスター、 恋の片道切符、悲しき街角、 パイナップ・プリンセス、大人になりたい
 1962年度
 五万節、江梨子、琵琶湖周航歌、山男の歌、寒い朝、星屑の町、島育ち、可愛いベイビー、ハイそれまでヨ、若いふたり、おもちゃのちゃちゃちゃ、  恋は神代の昔から、なみだ雨、いつでも夢を(第4回レコード大賞)、遠くへ行きたい、大学かぞえうた、霧子のタンゴ、赤いハンカチ、さすらい、バケーション、下町の太陽、サンライト・ツイスト、500マイルも離れて、悲惨な戦争、花はどこへ行った
 1963年度
 若い季節、出世街道、長崎の女、ホンダラ行進曲、高校三年生、男船、見上げてごらん夜の星を、東京五輪音頭、修学旅行、学園広場、仲間たち、美しい十代、浪曲子守唄、みんな名もなく貧しいけれど、明日があるさ、浪曲子守歌、こんにちは赤ちゃん(第5回レコード大賞)、東京ブルース、別れの入場券、島のブルース、ギター仁義、夕陽の丘、ごめんヨかんべんな、三百六十五歩のマーチ、サマー・ホリデー、ミスター・ベースマン、ビー・マイ・ベイビー、風に吹かれて、アイ・ウィル・フォロー・ヒム、アイドルを探せ、虹と共に消えた恋、涙のウェディング・マーチ、ワシントン広場の夜は更けて

 俺の中学3年当時に特に流行った曲は何と言っても《こんにちは赤ちゃん》と《高校三年生》です。特にその《高校三年生》とその1年後になりますが《ああ上野駅》のメロディーは当時を彷彿させる、とても懐かしい響きと郷愁を感じさせる音楽です。好き嫌いは別として我々団塊の世代の人間なら誰でも知っている曲と思われます。
 他に伊東ゆかりの曲で《歌をおしえて》やダークダックスの歌う家庭画報のホームソングが朝のラジオから流れていました。
 この家庭画報のホームソングは特に俺が気に入ったCMソングで歌詞・譜面共俺の手元にあり両方同時にここに掲載したかったのですが譜面については作曲家の許諾が得られず仕方無く歌詞のみの掲載となりました。譜面についてですが、これはダークダックスが歌っていた曲で俺個人の美的感覚・価値観としてはとても素晴らしいメロディーなので是非ここに掲載したかったのですが、それが出来ずにとても残念です。
 《歌詞》に関しての俺の個人的な見解は次の通りです。人間としての基本的な生活に対して真正面から取り組み、側面からバックアップしサポートすると同時に生活文化の担い手として積極的にリードして行こうとする姿勢が感じられます。しかしその対象となるべき主人公は社会的にも経済的にも恵まれた生活に余裕のある富裕層に位置付けられた階層の読者かと思われます。
 歴史的にこの楽曲は1962年頃僅か数年ラジオから流れていただけであり、今ではこの本の発行元の会社でもこの音楽を知っている社員の方はほんの数名だそうです。しかし俺にとっては懐かしい青春のメロディーです。尚この歌詞掲載については次の2社(敬称略)からの許諾を得ております。その御理解・御協力に対し心から御礼申し上げます。ありがとうございました。
 日本音楽著作権協会(JASRAC許諾番号J061214198)
 株式会社世界文化社(家庭画報発行元)編集総務・法務担当者

    家庭画報ホームソング
     作詞者・谷川俊太郎、作曲者・岩崎宏   

住む事 着る事 食べる事
心のこもった 暮らしの栞
朝の窓辺に そっと置かれた
家庭画報は 私の友達
暮らしを 育てる 考える
彩り豊かな 大人の絵本
夜のソファーで そっと開いた
家庭画報は 私の友達
licensed by JASRAC
 

⑧当時(1961年〜1963年)俺の住んでいた所は世田谷区世田谷(現在の地名は世田谷区桜丘)であり、最寄りの駅は小田急線・千歳船橋でした。小田急線の色はダークブルーとオレンジイエローのツートンカラーでした。俺が初めて小田急ロマンスカーに乗ったのは中学1年の8月に家族旅行で箱根に行った時で新宿から乗りました。当時はエアコンが非常に珍しい時代でしたがその車内はそれが十分に効いていて寒いくらいでしたが、大いに快適だった事が記憶にあります。

小田急線

 

⑨この《難破船》という映画のチラシは中学の卒業式の日に教室で皆に渡されました。当時の我々が観るのに相応しいと学校側が判断したのでしょう。この絵を見てスリリングな部分もありますが最後はハッピーエンドで良かったネという感じです。でも今このチラシを見ると懐かしい中学卒業時を思い出します。将来いつかこの映画を観るつもりですが、ストーリーはインターネットで確認済みです。

難破船 チラシ

難破船 チラシ

 

⑩海水浴には中2と中3の2回行きました。中2の時は3歳年上の従兄と一緒に三浦海岸でした。
 叔父が久浜に住んでいてそこを基点に行動したのです。その海岸で俺はほんのちょっとだったの
 ですがその従兄に無断で消えていて、その場所に戻ったら怒られました。年下の俺の事が心配だ
 ったのでしょう。彼はエリート高校から国立の有名大学を卒業し、当然就職先も超一流会社であ
 り今ではその会社の経営陣の一角を占めております。先日会う機会があったのですが今は好々爺
 と言った感じでした。中3の時は家族で海水浴(鎌倉)に行ったのですが生憎台風の接近で海に
 は入れませんでした。でも折角来たのにもったいないと思って海岸から海に向かったのですが係
 員から注意を受け非常に残念な事に断念しました。

sea


⑪内職 これは母がトランジスターラジオの部品の一部を作る仕事をしていて、100個処理して1
 袋に入れそれで7円でした。俺も勉強そっちのけでその仕事をやり過ぎ金儲けに夢中になったせい
 で目標校が駄目になったのかも知れません。当時の国鉄(現在のJR)初乗り運賃が10円の時代の
 7円でした。従って今ならJRのそれが130円ですので、その割合から単純計算すれば今その内職
 をやるとすれば91円になります。一袋処理するのに約5分を要していましたから現在の貨幣価値
 から判断すれば時給約1、100円にもなり、中学生としては美味しい金額でした。俺にとって仕
 事をして金を得ると言う意味では初体験でした。もっともその仕事はコンスタントにあった訳では
 ありません。数学の計算問題は苦手でもこうゆう金銭勘定は得意中の得意でした。
⑫学力優先主義の中にあって俺の置かれた立場は良く言って微妙、普通に言ったら劣等生の落ちこぼ
 れ生徒だったのです。ですから担任の先生からは無視されるし、友達も殆ど居ないし、話し相手も
 居ないと言う状況の中でこんな学校に居てもつまらないだけで、一刻も早くその夢の高校に行く事
 だけが俺の唯一の生き甲斐であり、非常に楽しみにしており、本当の夢に迄見てしまいました。
 その事は今でも覚えております。結果的には正夢とはならず幻の夢でした。しかし思い込みが激し
 くて夢に見ると言う現象は今(還暦)迄の俺の人生でもこれだけでした。
⑬第一章の①の先生の大変面白い授業方法が俺の心に残り、俺はその8年後に大学4年になり教員免
 許を取得する為に教育実習の場としてある高校へ行ったのですが、同じ手法で面白可笑しく授業を
 した処大受けだった事が記憶にあります。勿論それは担当の先生が居ない時です。しかしそれにし
 ても不思議な事は俺が受けた教育の場で小学校1年〜高校2年迄は学力的に常に落ちこぼれていた
 のですが、その俺が教育実習とは言え教壇の場に立ったと言う歴然たる事実です。そうは言っても
 たかが中学・高校の教員免許資格なのですから、これは大学で所定の単位を取得すれば誰でも取れ
 る資格です。大学卒業前に担当教授から《先生にならないか?》と誘われたのですが断ってサラリ
 ーマンになりました。
⑭俺が中学生当時住んで居た家の向かい側の家に日本学園高校の3年生が居て、頼んだ訳では無いの
 ですが俺の受験期にその高校の入学案内パンフレットを持って来てくれました。当時その学校は学
 力的には中堅校だったのですが俺の実力では無理なので受験は見送りました。しかしその高校生の
 好意には感謝しております。でも縁は不思議な物で、その高校の体育の先生が俺の入学した高校の
 体育の教師でもあったのです。その先生にとって日本学園高校は本業、俺が通学した高校は副業だ
 ったのです。その教師が教室での授業中に語った言葉が俺の記憶にあり、それは俺の心に今でも生
 きております。その言葉とは次の通りです。《本当の友達を作るのは今だけだぞ》と。校長もこう
 言っていました。《将来も俺お前と呼び合える友人を得るのは今だけだぞ》と。当時はそんなもの
 かな?と聞き流していましたが、これは間違い無く的を得た正確にして真実の言葉でした。
⑮中学何年の時だったかは覚えていませんが、黒い靴下を履いたらその内部でチクッと痛みが走りま
 した。丁度注射で刺された時の痛みでした。急いでその靴下を脱ぎその中を引っくり返して中を見
 たら蜂が入っていたのです。注射の痛みは一瞬ですが、この痛みは暫く続きました。
⑯中学2年の9月初旬の出来事です。家の魔法瓶はそれ迄常に氷水が入っており、何時も俺はそれを
 コップに入れずにそのまま直接口飲みをしていました。しかしその時は熱い湯が入っていたので火
 傷をして口の周りが爛れてしまいました。翌日学校へ行ったら隣のクラスの金城から《どうした
 んだ?》と聞かれたので事の顛末を話した処笑われてしまいました。俺はそれ以後そうゆう飲み方
 を一切しなくなったのは言う迄もありません。
⑰現在の一般家庭にあって当然ですが当時(1963年=昭和38年)の家庭に無かった主な物は次
 の通りです。カラーテレビ、ビデオデッキ、エアコン、空気清浄機、洗濯乾燥機、電子レンジ、ウ
 ォッシュレット、DVD、CD、携帯電話、パソコン等。他に水洗トイレ、家庭用固定電話、マイカー
 も一般的には普及していませんでした。鉄道では新幹線が無く京都・奈良への修学旅行も《ひの
 で号》と言う修学旅行専用列車でした。新幹線の開通はその1年後の東京オリンピックの年
 の1964年10月でした。こうして考えていると際限が無く正に隔世の感と言う気が致します。
⑱この文章作成の資料作りの為にデジカメを持って直接現地へ出向いて取材致しました。具体的には
 小田急線・千歳船橋駅〜桜丘中学〜中学生当時住んで居た住宅迄です。駅周辺は小規模な商店街で
 すが、それから中学に近付くにつれて商店と住宅の混在した街並みとなり、やがて住宅のみとなり
 ます。中学〜元住宅迄は殆ど昔のままの閑静な一戸建て住宅街です。当時たまに利用した医療機
 関は関東中央病院でありそれは今も健在です。変化と言えば千歳船橋駅が高架になった事、中学の
 正門前の道路幅が拡張されてバスが通る様になった点です。それ以外はさして大きな変化も無く昔
 のままの情景です。それはまるで俺がタイム・トラベルをして中学生当時に戻った様な懐かしい気
 がしました。ですから今の俺が還暦とはとうてい思えませんでした。尚俺が中学生当時の住所は
 《世田谷区世田谷》でしたが住居表示変更により現在は《世田谷区桜丘》になっております。当時
 の最寄りの駅は小田急線・千歳船橋でしたが現在は田園都市線・用賀となっております。
⑲1963年11月22日にアメリカ合衆国・ダラスで起きた悲劇です。俺がこのニュースを知った
 のは帰宅した父が言っていたからです。一瞬信じられませんでしたが事実でした。20世紀最大の
 悲劇かも知れません。その真相が明らかになり公表されるのは75年間の封印期間が解けた後との
 話しなので西暦2038年になります。その時俺が生存していれば満90歳です。生きて事実を知
 る事が出来るのか、かなり微妙か難しいのか未来の事は分かりません。ではここに1963年11
 月23日付けの新聞記事を掲載致しました。

ケネディ大統領暗殺当時の新聞

ケネディ大統領暗殺当時の新聞

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