先生《高校に行くのか?》
俺 《そのつもりです》
先生《だったらもっとがんばらなくちゃ駄目だよ》
俺 《はい》
この時俺の目に涙がちょっと浮かんでいました。
この射出先生の口癖は《規則を守らない者、決められた事を実行しない人、他人に迷惑を掛ける連中》を不心得者と言っていました。この先生は年齢的には50前後かと思われます。
ここで話がちょっと脱線しますが、俺が先生から何かを言われて涙が浮かんだ事が他に一回だけ満6歳の時にありました。それは小学校1年の時で算数のテストが0点で居残り補習を受けさせられて、再テストをやってその結果が上出来だった時の事です。その先生は俺にこう言ったのです。《やれば出来るじゃない》と。優しく褒めてくれたこの言葉が嬉しくて涙したのかも知れません。この時の年号、学校名、担任教師名は次の通りです。
昭和30年度、東京都大田区立雪谷小学校1年2組、金子先生(女性)。
小学校1年の入学式の後で教室に入り着席しましたが、その時俺の隣に座っていた女の子の名前は今でも覚えております。《ささひら はるこ》でした。
この学年は4クラスでクラス替えをする事無く全員無事に2年に進級しました。担任の先生も俺の2組を除いてそのまま持ち上がりで2年を担当しました。2組だけは先生が変更になりました。《2組だけ可哀相に》と誰かが言っていました。俺としても折角慣れた先生だったのにとても残念でした。2年の時は阿久根先生といって熊本県出身の男性でした。しかしこの先生は俺の16年間の学校生活の中では最高に優しいとても素敵な先生でした。成績評価もオール3だった事があります。その時《計算技能が優れている》とか《論理的思考が出来ない》と言う評価が書いてありました。今でも俺の記憶に残る模範的な先生でした。
俺が当時住んで居た所は大田区雪谷であり最寄りの駅は東急・池上線の雪谷大塚でした。小学校時代の話はもっとありますが本来の話から大きく逸脱してしまいますので本題に戻ります。
中1の時の英語の教師は女性で30代と思われる人で名前は俺の小学校1年の時の担任の先生と同じ苗字の金子先生でした。英語で《He》と《She》という単語があります。先生に指名された生徒がそれをそれぞれ《彼》《彼女》と訳していたのを聞いて、俺もやっとその意味が理解できる様になりました。俺の英語力なんてこんなものですから皆より大幅に遅れていて話にもなりませんでした。ですから成績は最低の1で当然だったのです。この先生の言っていた英文で一つだけ記憶があります。それはThis is a book on the table.です。ジェスチャーを交えて語っていました。発音は分かり易くはっきりとしておりました。
他に中1、中2時代の英語の先生で大変面白い事を言う先生が居ました。年齢的には30代と思われる男性教師で小山先生でした。サンプルとしてどんなに愉快だったかは第一章の①にその記載があります。
体育の教師の名前は柏原先生でした。20代と思われますが生意気な男でした。俺が職員室で担任の先生に2次募集で《若干名募集》で相談していた時に担任の先生は《若干名だと数名かも知れないなー》と言った処、その柏原先生は横から口を出して《いや、数名と言う事は絶対に無い、数十名だ》と言っていました。まあそれでも俺の事を思って言ってくれていたとしたらありがたい事です。
さてその体育の授業では、サッカーをやれば俺の所にはボールが来ないし、プールに入れば5メートル位しか泳げないし、ソフトボールでは凡フライが取れないし全くのスポーツ音痴でした。ですから成績が悪かったのも当然でした。それにしてもいちいちスポーツ着に着替えなければならないし、全くかったるい授業でした。
理科の教師の名前は眞木先生。50代とおぼしき男性で足が不自由でしたが謹厳実直で真面目な感じでした。
もう一人の理科の教師はいつも白衣を着て我々生徒達に説教を垂れていました。授業よりもそっちの方が多かったくらいでした。名前は後藤先生で推定での年齢は50過ぎと思われます。
中1の時の国語教師は30代とおぼしき男性で成績の事で皆にこう言っていました。《どうせやるなら5を取れ、それが駄目なら1にしろ》と。極端な事を言う先生だと思いました。名前は髭田先生でした。何時もきちんと背広を着こなし安定感のある落ち着いた感じの人でした。ある日の授業中、俺は当然の事ながら机の上に教科書とノートを出して授業を受けていました。先生は生徒の机の上を覗き込みながら教室内を巡回していました。そして突然俺の机の上にあったノートを取り上げその中身を見てしまいました。そこには覚える為に練習した漢字が書いてあったのです。そして先生はそのノートをかざしながらこう言いました。《漢字を覚える為に練習するのはいい事だけどノートに書いたのでは勿体無いので新聞に入っている広告の裏の白紙を使え》と。その時俺は恥ずかしいので思わず頭を掻いてしまいました。別に俺は間違った事をした訳でも無ければ、悪い事をした訳でも無いのですが照れ屋だったのです。しかしそれにしてもいきなり俺のノートを取り上げてその内容を皆の前で発表するのですから参っちゃったよ。でも何で俺をターゲットにしたのかな?唯の気まぐれなのかな?俺の事なんか無視して欲しかったよ。全く迷惑でした。
中3の時の国語教師は40代と思われる男性で突然キレる事がありました。名前は伊東先生でした。精神的に病んでいたのかも知れません。だとしたら可哀相な人でした。
中1の時の音楽の富田先生(30代の男)は一曲ずつ歌わせて採点していました。俺には《歌っているのか?》と言っていました。ピアノの音に比較して声が小さくて聞こえなかったのでしょう。道理で評価は1でした。最も俺は譜面が読めないので成績が悪いのは当然です。
中2の時の社会科は担任の藤枝先生でした。歳の頃は40前後か。成績の悪い生徒達を立たせて生徒の頭に拳骨で触れていました。勿論俺もその一人でした。
中2の英語(リーダー)は新田(にった)先生で60歳近く、総白髪でした。いつも意味も無いのにニタニタ笑っていたので、ある不良性の生徒が影でこう言っていました。《ニッタ野郎》と。
理科担当の男性教師・鈴木先生は面白い事を言っては皆を笑わせていました。その具体的な内容は忘れてしまいましたが、授業とは関係の無い事でこう言っていたのが印象的でした。《学校では肝心な事は何も教えないぞ、例えば女を好きになったらどうしたらいいのか?こうゆう事は教科書には載っていないし、先生も教えてくれない、だから学校に総てを期待しちゃ駄目なんだよ、学校は知識だけを教える所なんだからな》と。確かに的を得た本音の言葉でした。
数学は幸か不幸か3年間同じ教師で、3年の時は担任になってしまいました。それがこの文章の冒頭から登場してくる時崎先生でした。歳は40代だったと思われます。
中1時の時ですが俺はこの時崎先生から言われた宿題をやって来なかった事がありました。その時、その先生が怖い顔をして俺に《お前何故やって来なかったんだ?》と言われてしまい、それに対して俺は《5分の3はやった》と答えた処渋々納得していました。《あー怖かった》と思いました。何故なら怒られた様な感じがしたからです。
俺が中3になってこの先生が担任になったのですが彼がその好んで使った当時の彼の口癖が三つあります。それは《ガチョン》《ハッスル》に《発破をかけるぞ》でした。その先生が言うにはオール4なら都立合格なのに、ある生徒の成績で4が並んでいるのに1科目だけ2がある生徒が居ると半分怒って、半分悔しがっているみたいでした。その科目は《技術家庭》でした。特にこのクラスはその科目で2が多いとの事でした。ちなみに俺も2でした。しかし俺は9科目の平均でもオール2程度だったのですからどうしようもありませんでした。この科目で特徴的な事は担当の男性教師(名前は失念しました)が教室に来ても授業をしないので時崎先生は大変心配していました。他に時崎先生がイライラしていた事は成績表で3ばかりが並んでいる生徒でした。何故ならこれでは都立に入れないからです。その時崎先生、今も健在なら何よりです。
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shichirigahama@nifty.com - 落ちこぼれ中学生の夢の高校ブログ
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