世田谷区立桜丘中学校 昭和38年度3年H組落ちこぼれ生徒の二つの失敗, 憧れの高校受験とプロポーズ

〜目次〜

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序章
《前 文》
第一章
《受験ムードと俺の英語体験》
第二章
《中学1年当時の英語の教科書》
第三章
《高校受験案内書》
第四章
《入試時の状況》
第五章
《聖パウロ高校受験理由》
第六章
《妹の事》
第七章
《各生徒について》
第八章
《各先生について》
第九章
《中学3年間の成績表等》
第十章
《生徒手帳》
第十一章
《修学旅行》
第十二章
《卒業写真と名簿》
第十三章
《その後の感想と俺の人生》
第十四章
《同級生の皆様へ》
第十五章
《雑記》
第十六章
《思い出の昭和史》
番外編
《実録会話と想定会話》
あとがき
《総決算》

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第四章《入試時の状況》

 黄色い表紙の高校受験案内書の俺の夢と憧れのその高校のページ(第三章)を毎日見ていてすっかりその高校に行く気になってしまいました。事実指折り数えてその日を待ち望んでいたのです。本当の夢に迄見た程憧れていた何が何でも絶対に入りたかった断トツの第一志望の学校、それは当時港区赤坂(地下鉄丸の内線・赤坂見附駅付近、現在の所在地は八王子市内)にありました。それは俺にとって人生最高にして最大の夢と希望と憧れの学園であり、その名は《聖パウロ学園高等学校》でした。入学試験の一次(1964年2月10日)は学科でしたが見事にパスして絶好調かつ有頂天で超ハイな気分でした。そして合格の暁にはこの高校受験にストップを掛けた担任の時崎先生に大威張りで報告をするつもりでした。しかし一次試験に敗れ去って裏道から泣いて去った受験生が居たと家に帰ったら母(両親の面接もあった為一緒でした)が言っていました。それに対して俺は《世の中そんなに甘いもんじゃ無い》と一人悦に入って優越感・勝利感に浸っていました。後日まさか俺がその泣き去った受験生と同じ立場になるとは夢にも思いませんでした。二次試験(2月11日)は面接でした。しかしこれに対する対策は何も考えておらず、ぶっつけ本番でした。ですから上がってしまって口の中がカラカラに渇いており、緊張し切っていました。ですから面接官から何回か《えっ?》と聞き返されていました。要するにハキハキした答えをしていなかったのでしょう。その点に問題があったのかも知れません。他に《休みの日には何をしているのか?》と聞かれ《テレビを見ている》と答えたのですが《何を見ている?》と突っ込まれ《西部劇》と答えていました。この答えも拙かったかも知れません。俺とは別に両親の面接もありました。
 そしていよいよ合格発表日の2月13日を迎えたのでした。俺の受験番号の数字は26でしたが最終合格者番号で25の次の数字は余りにも非情な27でした。どうしても何が何でも絶対に入りたかった夢と憧れの高校の一次試験をパスして合格したつもりになっていたのに、最終結果が不合格というとても厳しい現実の前に心理的にも精神的にも大きく動揺してしまいました。何故なら本来俺の受験番号である26があって当然なのにそれが無いからです。《嘘!信じられない!》と言うのが実感でした。しかし現実は現実でありそれを俺は瞬時に理解し受け入れました。しかし俺はその掲示板の前で茫然自失と言った状態で目の前が真っ暗になってしまいました。そしてボーと立ちすくんでいた処、横に居た母から《補欠合格者の方を見たら?》と言われてそのコーナーを見たのですがそこにもありませんでした。そして母から《二次募集をやっている》と聞かされそこへ行こうとしたのですが、父から《もういいじゃないか》と言われ、俺もその意見に同意しました。何故なら先行きの見通しも良くないし、例え入学出来たとしても一回目は落ちたというダーティなイメージが残って尾を曳くと判断したのです。要するにそこの生徒になったとしても劣等感に悩む可能性があったのです。結果論ですが二次で不合格になる位なら最初から一次合格者にならなければ良かったのです。学校側も罪な事をしたものです。余りにも残酷・冷酷な結果を受け止めなければならない立場に立たされて絶望的な精神・心理状態でした。俺にとって夢と希望と憧れの高校であり、しかも一次試験をパスしたのですから合格は単なる時間の問題であり、俺の今後の人生は順風満帆その物に思えました。しかしこうゆう結果となり俺の価値観が完全に否定されて目の前が真っ暗になってしまいました。そして人間性迄否定されてしまったかの様な気もしました。ちなみに俺のクラスの他の生徒達は全員が先生の言う通りの賢い《お受験》をしたので2月中に《一流の都立》や《立派な私立》に、成績が俺より悪い生徒でも《それなりの高校》に一発合格して《わが世の春を謳歌》していました。当時の合格発表は私立が2月13日、都立が2月25日というのが一般的なパターンでした。従って俺は孤軍奮闘で四面楚歌というとても厳しい戦いを余儀無くされていました。尚俺以外の生徒達は全員が出来レースや八百長コースと言ってはちょっと語弊がありますが、その場を上手く処理して合格したのです。しかし俺はバカみたいに学力劣等生の癖に先生の忠告を無視してガチンコ勝負をしたのですが、結果的には後一歩の詰めが甘く大逆転負けを喫し意気消沈してしまいました。その後2校受けるも失敗し(この時点で3戦全敗)絶体絶命で背水の陣という人生最大のピンチを迎えたのでした。挙句の果てに担任の先生はホームルームで出来が悪い癖に、先生の言う事に逆らった唯一の生徒として俺に罰を与えたかったのか《まだどこにも合格していないなは○○だけですからね》と俺の実名をクラス全員の前で発表してしまいました。皆の前で何て事を言うのだろうと思いつつも、まだ何とかなるだろうと思う気持ちの上での余裕は在りました。その後3月になって卒業も間近になり3校受けて全て合格し再度担任の先生がホームルームで《○○は最初3連敗したがその後3連勝し後になってエンジンがかかって来た》と言ってくれたので何とか面目を保つ事が出来ました。結局俺は新宿区内にあった第二志望の高校に入学しました。そしてその7年後に大学を卒業してサラリーマンになり現在に至りましたが、今(還暦)迄の人生に於いて一番嬉しかった思い出はこの聖パウロ高校の学科試験に合格した時で天にも飛び上がらんばかりに最高に嬉しかったのですが、結果的には不合格が判明するまでの僅か2日間の糠喜びでした。逆に人生最悪の出来事はそこが不合格になった時で絶望そのものの最低に落ち込んだ気分でした。俺の人生に於いても最高の天国と最低の地獄を味わった遙か昔の15の春でした。この時の劇的な体験・経験は生涯忘れる事は無いでしょう。この糠喜びを除けば今迄で一番嬉しかった思い出は第二志望高校に合格した時でした。その高校の合格発表の掲示板に俺のフルネームがあったその嬉しさ・喜びを一刻も早く親に伝えたくて、最寄りの駅から家迄1キロもあるのですが走って帰りました。しかし家には誰も居なくてちょっとがっかりしました。その後の俺の人生を考えるとこの第二志望校に合格した事はその時もそうですが、最高に素晴らしい出来事だったと理解しております。その次つまり二番目に嬉しかった思い出は中学時代の夢であった英検2級にパスした時(大学3年)でした。

聖パウロ学園高等学校

昭和39年度入学試験合格者番号

2 3 6 8 9 10 13 15 16 18
19 21 22 25 27 29 30 32 33 35
37 38 40 41 42 43 45 46 47 49
50 51 53 55 56 58 60 61 62 64
65 66 69 70 71 73 75 77 78 79
81 83 84 87 90 92 95 99 100 101
103 104 106 109 110 111 113 119 121 122
125 127 130 135 139 141 143 145 149 151
153 155 159 160 163 165 167 168 170 171

補欠合格者番号

1

4

7

14

23

31

34

39

52

59

72

82

93

98

107

112

129

133

152

169

尚この時の受験者数は173名、合格者は90名でした。競争率は1.9倍、補欠合格者は20名でした。

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